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夫美子語録

私が悲しいのは、人がその美しさを生きない時だ。
2002-4月16日(火)

人は誰でも美しい魂と共にいる。豊かな才能を内に秘め、それを使う時を待ちそれを磨く。時には気付かず、時には否定するかも知れない。しかし、常にどこかで感じている。だからこそ、それに興味を持ち訓練しようとし、それを使って豊かな自分になる事を目標にして精進をするんだと思う。子供の頃から何となく思い、成長するにつれて段々とそれが才能かなと感じ始め、好きだと思い、続けたいと、これで成功したいと思うのだろう。そういう人には他人も気が付く。チャンスをくれる。何か都合の良い偶然な出来事が起こる。そうやって自分の才能を磨き、才能を生きていくという事はなんと豊かな事だろう。しかし、その過程でそれをやめる人の何と多い事か。人より時間がかかるから、人より上手く出来ないから、人と比べたらたいした能力もないように思うから。そもそも私にはそんな事は出来ない。始めっから出来ないと思いこんでいたりもする。魂の美しさに甲乙はない。魂の美しさにあるなしはない。魂の美しさに違いはないのだ。才能は磨くのに時間がかかる、人間が歩くのに時間がかかったように、始めてから体が覚えるための時間は必要だ。訓練が必要だ。それは繰り返しの作業をする事によって、私たちの頭が納得するための時間だ。頭が観念を持たなければ、たいした時間は必要ない。

しかし、多くの人の場合、親や学校の先生から一律の教育のせいもあって、観念が支配する。すぐにはできないという観念だ。子供には出来ないという観念だ。誰でもが出来ないという観念だ。自分は凡人で劣っていて、才能を使うのは特別の選ばれた天才だけで、そういう選ばれた人はそこら辺にはいないという観念だ。そして、特権階級にしかそういう人は生まれないと思う観念だ。だから決して自分ではない。決して自分の境遇は天才が誕生する境遇ではない。そして自分は取るに足らない生まれてこなくても別に社会的に何も問題のない人間だという観念を生きてしまう。存在が無駄な人などどこにもいない。生まれてきた事が社会的に不要である人などどこにもいない。私たちは、総ての人が在るべくして在り、総ての人が存在する価値がある。何かをする時に、自分の偶然に降伏していよう。人との違いに焦点をあてるのではなく、自分に起こる総ての偶然を楽しみたい。一見遠回りかに見える事でも、その人にはそれが近道である事が多い。それは私達人間は目標にいかに早く到達するかという事よりも、どの様な方法で、どんな道を通って、そして何を味わい何を体験してそこへ行くのか。それが目標に向かう時の一番大切な意味だからだ。

そして何かを成し遂げた時には、その道程がその人の財産であり、それがその何かを成そうとした事の大きな目標である事を、達成した人は感じ取る。その自分の道程が財産と感動している人の姿は美しい。その美しさは、それを達成した形によるものではなく、達成するに至る経験がその人を輝かせている。多くの人はその達成した時のその人をやっと見る。初めて見る。すると一瞬にしてそこに、しかもえも簡単に困難もなく、チャンスに恵まれトントン拍子に軽々と到達したのだと思う。いや思いたがる。そう思う事によって、そんな幸運は誰にもやってくるものではないと決められる。そうすると、自分の懸案事項である「何かになりたい。達成したい」は、誰でもが出来る事ではないので、ましてや自分の様な凡人には到底不可能なので、やっても無駄だと決められる。こうしてめでたく何にもチャレンジしなくて良くなる。チャレンジするなどという恐ろしい、不安を伴う事をやらなくて良い。恐れを克服する試練を耐えなくても良い。これはとても安心できる道具だ。自分を侮るというのはこのようにとても巧妙に、しかし容易にやってのける事ができる。自分を信じる事よりも簡単に、かに見える。

しかし真実は逆だ。自分を侮る事ほど労力の入る事はない。時間も必要だ。たくさんの観念を頭に植え付ける莫大な体験も必要だ。たった一つの「恐れ」という感覚のために、莫大な労力を払って、それを温存させようとする。自分を信じるという事は実はとても簡単だ。一瞬にして出来る。それは「行動する」事によって実現される。行動するという事は、その結果が何であれ受け止める、自分の事実はその結果であると降伏する事だ。やってみなければどうなるか分からない。みんなと同じかどうかなど分からない。どんな結果を自分が生み出すのか、それに興味を持てば、幾千幾億もの可能性の中のたった一つが完璧な偶然によって創造される。その創造する事が私たち魂が人間として生まれてきた目的だ。魂が選択するたった一つの可能性の連続が人生だ。ある意味「運命」に身を任せるという事かもしれない。逆に「運命」を創るという事かもしれない。しかし自由である事には違いない。結果を限定したところから自分を不自由にしているという事に気付けば、人生は愉快だという事が分かる。結果よりもどう行動するかが大切だ。岐路に立った時、大きな困難に直面した時、そこで何を選択しどう行動するかが私たちに与えられた自由だ。何を選択しても問題ない。心からそれを信じて責任を持って「選ぶ」という事だ。その繰り返しが人生だ。

さて、そうした魂のチャンスを反故にし、自分の可能性を信じず、小さなチャレンジにも目を背け、何を提供してもされても払いのけ続ける人を見た時に、悲しい気分になる。その人の体の中では、魂の輝きがその人の可能性を約束しているのに。その人にとってそのチャンスは、恐れるに足らない簡単で楽々乗り越えられると魂が体の中で煌めいているのに。こちらから見ているとそれが明らかなのに、その人はそれを、魂の輝きも自分の可能性も、豊かなチャンスも、自分に備わっている才能にも目を背け続けている姿を見ると、切ない思いになる。

おそらくその人の魂はそれでも了解だろう、勿論。
しかし、その人が自分の才能や力を見つけたいと、そのために私に力をかしてくれとやって来たのだったら、自分がそれを見つめ自分がその人の魂の輝きに感動しただけに、その人がそれを無碍に放り出す姿には悲しくなる。切ない気分になる。そうやって輝きから目を背けた人生へと戻るのかと、追いかけて引き留めたくもなる。しかし、それもその人の選択でありそれも創造されていく豊かさの一部なのだと現世的な自分に言い聞かせ、やや諦めのような気分で手放して行く。何人ものそういう人を見てきた。そしてやっと、それでもその総ては完全に創造された人生だと思える様になった。
 

 

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